世の中の社会参加不全にまつわる問題について(第一章)
私は昨年初秋、31歳をもってとある学校を卒業し、卒業証書を手にした。
その学校は引きこもり支援や社会不全社のための延長線上の法人機関のようなものだが、実はただの学校ではなかった。そこはいわゆる「既存」をぶち壊し、新たな価値観を見つけ、新しい自分を作り出させる「奇跡」の場所でもあった。
私の人生録
私、高野は1992年生まれ、平成の初期に生まれた人間だ。日本の世の中はバブルが崩壊し、失われた○○年という経済活動の低下が始まった頃だったと思う。
私は保育園から小学生、中学、高校へと何気なく進学し、2012年頃には20歳を迎え「表面上は大人」になった”表面上の男”だ。しかしこの学齢期においては、さまざまな多くの疑問を抱えたまま、生きてきた人生であったと言っても過言ではない。
私は正直、学齢期の教育機関で楽しい思いをしたという時は少ししかない。はっきり言って学校なんて嫌いな人間だった。友達も実質いなかったし、親しい人は皆無に等しい。子供の頃は将来の夢なんかもなかったし、そもそも自分が何のために生きているかもわからなかった。
だから先のことを考える余地なんてないし、数年後の先なんて存在しない(生きていないかもしれない)とさえ思っていたほどだ。でも親や先生といった人に導かれて生かされてしまったから、なぜかわからないけど小学、中学を卒業し、高校へと進学して生きてきた自分だった。
もちろんその間でもアニメなり、パソコンのゲームなり、昆虫なり、色んな「物」に興味を持つことがあったが、それが当時として将来につなげられるものであったかというと、そんなことはなかった。
また子供の頃当時の自分は、他の人よりも発達障害気味の所もあり、他の人よりは変わって見られていたかも知れない。少なからず私にはそういう自覚がある。その理由は街中の電柱なり、カードレールなり、瓦屋根なり偏ったものに興味があったかも知れないし、普通の男子が興味を持つようなヒーローものやロボットにはあまり興味を示さなかった(今でこそその感性はわかるが、それでも「大人が用意された子供が楽しむもの」はあまり興味を持たなかった)。そして流行や話題といったものに興味を示さなかったために、共通する話題がなかった。
それゆえに友達はいなかったし、コミュニケーションも今とは比べ物にならないぐらい下手すぎたし、自分勝手で他人の気持ちを考えることができない人から嫌われるような人間だったと思う(とはいえ小学生だと誰もがそんなもんだと思うかもしれないが、私は少なからず高校の頃まで利他な気持ちはなかったと思う)。そして友達の家へ遊びにいく、ましてや一人でどっかへ外へ歩いていくなんてとてもできないほどビビリな人間でもあった。本当に自我が全然ない脆弱な人間だった。
プライベートでは同級生には会いたくないし、出会っても基本は無視していた。何度か向こうから話しかけられた時はやむを得ず反応したけど、当時はよく相手は「こんなことができるな」と思うぐらい、相手を不思議に見ていた。
そういう意味では私はドラえもんののび太よりも劣る人間であったかもしれない。のび太は(フィクションの人物であるものの)ダメ人間の典型的な例として見られるけど、子供ながらに単独での行動力があるし異性にも遠慮なく惚れる。私は勉強も平均以下(0点もとった事ある)の他に行動力すらなかったんだから本当にしょうがなかった。成人の今ではある程度慣れてるけど、しずかちゃんのように女と付き合うなんてのは自分の心の中ではもってのほかだった。
大人の言う教育通りに生きていれば恋愛など低劣であり、勉強の妨害にもなる上、性的な物を徹底的に排除するような体制をとるならばしない方が素晴らしいことであり正義だと思っていたからだ。校内においてもそういった風潮は生徒にも渡っており、とにかく同調主義であり、女と付き合うことはスケベなことだと揶揄されるため、恋愛などどうしようもない馬鹿な人がする物だと思っていた。男は同性と付き合うことだけが正当だと思っていた。
それでも唯一ヤンキーのみは、不届きものの強者だから「なんでもありなんだ」と彼らの男女交際に対してあまり違和感は抱かなかったが、かといって羨ましいと思ったことは一度もない。むしろ異性を持つことに逆に自分自身に負担を強いることになるため「よくこんなことができる物だな」と、自分には縁遠い存在として見ていた。
高校時代、それなりに自我が確立し、異性に対して遠慮がなくなった時期においても自分にはリアルの女など縁遠いことは変わらなかったし、当時考えてた今後の人生設計として「結婚は一生しない」と決めていたのもこの頃だ。
前述した異性に対するコミュニティの負担もあったし、保健の授業で教えられた通り、欲望から生じる女の子に対するリスクの大きさ、そこから起きる責任感の重大さ、親にまで響き渡りかねない羞恥事項、更には人生上とてつもなく大きな物を背負っていくという覚悟と自信が全くなかったため、自分にはその時の頃ですでに論外の域であった。〈「北の国から」の純が二番目の彼女に対して犯した大人の壁を超えた行為がいかにいけない事なのか、それが強く印象に残ってる。〉
それに一人の時の方が本当の自分でいられるし、仮に将来においてもプライベートには誰も入れたくないという願望もあった。だから将来性を考えれば女など論外であるのだ。
かといって私もしょせんは性別上”男”ではある。完全に異性に興味を持たないなど無理なことであった。なので私は絵が描けることもあり、代わりの手段を見つけた。それは架空の、空想上の、そして二次元の存在である。
漫画のキャラクターである女性キャラに好意を抱く事にしたのだ。もしくはオリジナルの女性キャラの絵を描き、推しを作るなど、代わりの手段で性欲を満たす様にした。
私は中学時代に漫画を読み始めて(それ以前はアニメ中心に見ていた)以来、絵を描き始めた関係上多くの創作のキャラに魅力を惹かれたが、今日でも作品のキャラクターなどは日常の一部でもある。
架空のキャラならばどう思おうとリスクがない。疑似恋愛だってできるし、私はそのうちその疑似恋愛に心理学的な、もしくは哲学的な価値があることにも気付くようになり、「モノ」好きの私からしたら共通するものがあったりするので今日の人生においても大きな影響を与えている。
とはいえ私は「萌え」ジャンルはあまり関心がない(男性への媚びを目的とした女性キャラはあまり好きじゃない)のでオタクのようなイメージ(キャラものの壁紙やグッズ、フィギュアなどはあまり集めてません)はしないで頂きたいが。。(なお基本的な趣味は絵画やレトロものであり、女に関する事についてはあまり公にはしないです。)
我慢を強要させる人間作り
話を少し戻そう。私は無駄に遠慮しがちな人間だ。だからこれまでの人生で本能に向き合えなかった。
周囲のステレオタイプの大人の言いなりに生きていた私だから、特に母は必要以上に怒るし、それが原因なのか他の人以上に我慢強く、さらには遠慮深く、自分を他の人以上に抑制して生きてきた人間だったと思う。
自分の好きなことすらまともに言えず、必要以上に心を抑えられてきた学齢期だった。とにかく我慢を強いられ、必要以上に恥ずかしいという心さえ植え付けられた人間だった。
しかしその我慢がかえって更なる醜態を引き起こした人生があったのも事実だ。子供時代には何度か失禁をしてしまったこともあるし、飯もなかなか集団内では食えなかった。一体何に対して許せばいいのか、不十分でわからないまま育てられたからだ。
かといって私も一人の自我を持った人間である。こっそりと悪いことをし、頻繁に叱られまくったこともあった。けど30過ぎた今を振り返れば俺だけが悪いんじゃ無く、大人側の方に対しても勝手さがあり、わがままな一面があったのではないか。
大したことじゃないのにやたらと強く怒るんだよね。「絶対にそうしなければならない」的な主張を持っていたから、相手側の都合など無視して叩きまくる。こんなのは威圧であってしつけでもなんでもない。大人にとって都合のいい風になってほしいだけだと思う。
学校に行かせるのも勉強をやらせるのも、ただ単に「みんなそうしてるから」からやらせるのであって、子供に対する目的がなく、何のために育ててるかをしっかりしてない。ただただ子孫を残すという理由だけではもはやこの科学文明社会ではナンセンスである。子供が幸福になるように育てるにはどうすべきか?そういった考えが大事ではなかろうか?
以下の問題があると思う。
- なんでも国が定めた事をしっかりやりきれれば、自分達親と同じような大人になれるのだと思い込んでいないだろうか?
- 学校という無償提供している教育機関を「政府が提供するから完全信用できるんだ」と盲信し、こうすれば人間は自動的に育つんじゃないかと勘違いしているんじゃないだろうか?
- その教育課程において致命的な穴があり、その穴に関しての問題(個性排除、無意味な教育、いじめ、登校拒否、引きこもり等)に認識している人はどのくらいいるのだろうか?
- また子供を作ることを決めた大人は、自分の今後の人生に大きな負担が起こりうること、その覚悟はしているのだろうか?
- 人間として生きていけば「皆そうすべきだ」という固定観念に囚われて、結婚なり、更に子作りを行っていないだろうか?
本当にこの世界での子育てというのは本当にどこかおかしいものだと、2024年現在今の自分が振り返って思っている。人間が自然に育つのはあくまでも身体に対してだ。他の学問的なものや感覚的な物は教えてもらわないと基本的には身につかないのである。
子供の立場を無視し、大人にとって都合の良い教育は本当の教育にならないし、実際には人間を作る過程で多くのものを見落とされており、本当の子育てになっていないのだ。
私は自分が確立できてないまま大人になっていた。少なくともあの学園に入る数年前までは。
これらも全て親の望む生き方、世の中が望む通りの生き方をしていった結果である。残念ながら、人間は先代の大人の言う通りに、それも他人の望むような生き方だけでは、幸福な生き方は得られないのだと思う。
周りのやり方に合わせるように人生を委ね、子供においても自分自身が心の中で確立されていないような生き方では、本当の幸せはできない、むしろたくさんの劣等感や障害に蝕まれて苦しくなってしまうのだと思う。
私の生きてきた平成世代の人たちでも、このように多くのものに必要以上に抑制されて生きてきた人はどのぐらいいるのだろうか?
そしてその抑制に疑問を持ち、おかしいことに気づいた人こそ、その世代の大人は非社会的な生き方を選択するのである。社会の方がおかしい。平成世代の人は徐々にそれに気づきはじめている。
20代を過ぎてから
そして私は学歴期を過ぎた後、どこかへ働く気も起きず、数年間はニートになった。多くのステレオタイプの人間は大学進学なり、一人暮らしなり始める時期だろう。更にはバイトも多くの人はしているのかもしれない。
しかし私にはそんなのどうでもよかった。
- そもそもなんでまた更に勉強して進学?
- なんでバイトなんかするの?親の金で生きられればいいじゃん。
- 一人暮らしなんて難易度の高い生き方じゃない?こんな20前後の心でそんなことが可能なわけない。
20歳の頃の私の心は上のような状態だった〈自動車の免許は出身地の関係上取らされたけど、親がその気になかったら免許の取得すら不可能だと思っていたかもしれない。〉
既に他人とは何かしら障害があるように気づいていた自分には、他人の生き方に対して常に疑問に思ってた。そもそも他人と合わせるということ事態気に食わない。
働いて一人暮らしをするという生き方は何十年も先のことだと思ってた。少なからず20歳の頃はそう思っていたのは確かだ。
友達のいる人ならその人たちの生き方を基準に多くの人は成長していくだろう。しかし私にはそんな基準なんてなかったから、この辺りはある意味心の自由があってよかっただろう。
学生時代は馬鹿みたいに他人に合わせた生き方をしなくちゃいけないと周りに押し付けられるけど、そもそもそんな教育自体、今考えればおかしいと思う。
人間は一人一人違う個性というものがある。しかし教育する人側はその考えが足りず、人間はみんな同じ様になるべきなんだと心の奥では思っているのである。少なからず教師よりも教育システムがそうさせており、誰もが疑問を言わないから、生徒の心を無視した理不尽な教育さえ成り立ってしまうのだ。
親にしても同じだ。「みんなやってるから自分も同じ事しよう」と思って、子供を産んで同じ様に育てる。とんでもない事だ。特に「できちゃった婚」なんていうひどすぎる結婚なんてこの世の他にない。こういった十分に人間の知識もない、大人たちの勝手な都合で無計画に子供を育てるやり方は、結果的に「成長のための必要な教えが足りない」ために、より社会不全な人間を増やす原因になっているのだと思う。
とにかくこの文明社会で生きるための「教えが足りない」、もしくはこの世界での「面白さに関する魅力を伝えきることができていない」のが問題である。教育などの国家機関はユーモアなど馬鹿にしてほとんど触れない、ただただ生きる上での厳しいことばっか教えている。そんなことではいずれは生きる意欲すらなくしてしまうというのに、親などの大人に取っては都合よく子供を操りたいからと、そういったしつけを疑問も持たずにやってしまう。
そして最終的にはそのように育った子供は「この世は難しくて生きにくい世界」と認識し、消極的でニートのような人間が出来てしまう。さらに場合によっては自殺に至ってしまう人間までできかねない。
ユーモアは人間の心が欲する本質である。低劣で馬鹿にしてこの世から排除するものではない。ユーモアがあるからこそ人間は笑顔を持つことができ、快による感情的になることで心が安定して一人の生物らしさが保つのだ。
何もかもが国が定めた秩序のみに従い、真面目で塗り括った世界なんて息苦しく、これ以上に生きにくさを感じるものなんて他にないと思う。そして何より真面目すぎるものは”面白くもない”から、余計に生きる意欲をなくしてしまう。ユーモアや感情を排除していれば尚更だ。
「みんなやってるから自分も同じ事しよう」はリスクな少ないものに対してやるべきであって、リスクが大きすぎる結婚や子育てなんてものにはそういったこと軽々しくやってはいけないと思う。
ユーモアや性欲は低劣だと馬鹿にして排除するくせに結婚だけは政府も優遇するなんて矛盾もいいところである。「相手を求める」という男女関係の性欲なしで結婚を成立させるなんて人権侵害に他ならない。そもそもは人間は今や地球の大部分を支配できてしまっているほどの「高等生物」である。そして高等生物ゆえに人権もあり、虫や動物と違って容易に殺せない生き物である。
そういった高等生物であるならば、まともな人間として育て上げるなんて並大抵のことではできないと思うし、そもそもは素人が扱えるわけが無いのである。なのに社会は経済活動と行政維持のためにとにかく次世代の大人を欲し、誰にもで子供を産ませようとする。しかし、それ以前に人間が難易度のある高等生物であることの認識が足りてない。
結局多くの親は子供を産んだ責任を他人にも押し付ける風潮が成り立ってしまってる。その理由はお金と仕事にために時間がないからだ。そして保育園などの預かり施設に預けたり、教育機関に丸投げするが、それもおかしいことである。
人間を創造した責任を取ることが十分できておらず、ただ金を投げて教育を他人に代行して貰えばいいなんて、こんなのは「表面上の親」だけでしかない。家と飯を与えるだけが親ではないのだ。
教育機関だって未だ時代遅れの古いシステムが多く成り立っており、生きていく上で必要のない学問を教えられたり、今では考えられないような校則まであるほどだ。人間の成長なんてそこだけでは絶対保証できない。むしろ逆でいじめなどによって世の中に出られなくし、成長を止めさせてしまうことさえある。
親には子供に対してまだ何かすることはあるはずである。
〈じゃあ本当の親とはなんなのか?は、また別ので述べさせていただく。〉
大人が子供に対して世の中は改めて向き合う必要がある。そして平成時代を幼少から過ごした人は、これまで人生からおかしな点がなかったかもっともっと疑問に気づいて欲しいと思う。
30代になった今、先ほど述べたととある支援学園に卒業し知識もそれなりに得た今の自分から親を見るが、こんな親でよく俺を育てる気になったなって思う。結局義務教育や高校だけでしっかりした大人になれなかった理由、自分が発達障害さえ思ってしまった理由、そして20代後半に自ら選択した支援学園で人生を調節してもらって「それなりの」自立した大人になれた理由がわかってしまった。
良い人生を生み出すのは「他人に合わせること」ではなくて、「自分の頭で考えて行動していくこと」なのだ。人生を他人に預けたところで本当の幸せは得られない。そんなことをしたところで劣等感などで苦しむ一方だ。他人ではなく「自分に正直になり能力を引き出せる」こそが大事なのだ。
〈あと私は発達障害(の可能性)だともいったが、ここ最近そうではないことを自覚した。そもそも発達障害という定義もまた社会の都合によって生み出された「身体の障害」とは異なる、ある意味誤認性によって作られた定義である。これも本質的には人間論的におかしな点があるという。これも後日改めて述べて行きたいと思う。〉